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上智大学 総合人間科学部 心理学科 帰国生入試 2021年 過去問解説

問1-1【解説】

 この問題は、4つの文(a, b, c, d)を文脈に合うように空欄AからDに並べ替える、文章整序問題です。筆者が「言い換えてみようか。」と述べた後に続く部分であり、「道」という比喩がどのように展開・深化していくかを論理的に捉える必要があります。

各文の意味を分析する

a. 文の道は錯綜し、からみあい、無限につづき、それは誰がどこまで歩いていってもいい。

 「文の道」、つまり言葉によって表現され、他者と共有可能になった道について述べています。これが多くの人に読まれ、解釈されることで複雑に広がり、新たな思考や経験を生み出していく様子を示唆しています。

b. 歩かれた道は、現実の道から経験の道に転化する。

 物理的に存在する「現実の道」を、人が実際に「歩く」という行為を通して、個人の内面的な「経験の道」へと変わるプロセスを説明しています。

c. 現実の道は、誰がどこまで歩いていってもいい。

 すべての始まりとなる、物理的な「現実の道」そのものの性質を定義しています。これは誰にでも開かれた、最も根源的な出発点です。

d. ひとりの経験の道は、文の道(言葉に捉えなおされた道)としてのみ、この世界にとどまってゆく。

 個人の内面にとどまる「経験の道」が、紀行文のように「文の道」として言葉で表現されることによって、初めて他者と共有でき、客観的な形で世界に残るものになる、というプロセスを説明しています。

論理的な順序を組み立てる

 話の展開は、具体的で普遍的なものから始まり、個人の内面的なものへ、そして最終的には他者と共有される普遍的なものへと至る流れが最も自然です。

【ステップ1:出発点】

 まず、すべての基礎となる物理的な存在、つまり「現実の道」から話が始まるのが論理的です。したがって、cが最初の空欄Aに入ります。

【ステップ2:個人化】

 次に、その「現実の道」を個人がどう体験するかに話が移ります。「歩く」という行為によって「現実の道」が個人の「経験の道」に変わるプロセスを描写しているbが、cの後に続くのが自然です。これが空欄Bです。

【ステップ3:客観化・記録】

 個人の中だけにある「経験」は、そのままでは消えてしまいます。本文後半で浮谷東次郎が紀行文を書くことの重要性を語っているように、その経験を言葉にすることが重要です。個人の「経験の道」が「文の道」として記録されることで世界に残る、と説明するdが、bの次にくるべきです。これが空欄Cです。

【ステップ4:社会化・普遍化】

 最後に、「文の道」として世界に残されたものがどうなるかを述べます。文章は多くの人に読まれ、多様な解釈を生み、無限に広がっていきます。この様子を説明しているaが、全体の結論として最後(空欄D)に来るのが最も適切です。

最終確認

 以上の流れをまとめると、c → b → d → a となります。この順序は、物理的な存在から個人の内面へ、そして社会的な共有物へと至る、非常に論理的で一貫した流れを形成しており、本文全体のテーマとも合致しています。

  • A: c. (現実の道)
  • B: b. (現実の道 → 経験の道)
  • C: d. (経験の道 → 文の道)
  • D: a. (文の道が社会に広がる)
     

問1-1【解答】

c, b, d, a

問1-2【解説】

 この問題は、文脈に最も合う単語の組み合わせを5つの選択肢から選ぶ、空欄補充問題です。空欄EとFを含む一文と、その前後の文脈を正確に読み解くことが正解への鍵となります。

問題箇所の確認

 本文中の該当箇所は以下の通りです。この文から、「E」は「肉体の旅、実在との出会いの旅」を肯定的に言い換える言葉であり、「F」はそれと対比される、否定されるべき旅のあり方であることがわかります。
「東次郎の旅は E だ。それは F ではない。肉体の旅、実在との出会いの旅だ。」

文脈の分析

直前の文脈:

 少年(東次郎)がオートバイに乗り、風を感じ、流れる風景の中を走る様子が描写されています。これは、彼の旅が観念的なものではなく、五感を使った非常に身体的な体験であることを示しています。

直後の文脈:

 「肉体の旅、実在との出会いの旅だ」 という一文が、空欄の直後にダメ押しのように置かれています。これが最大のヒントです。さらに、飛行機乗りだったサン=テグジュペリが実際の飛行体験を通して名作を書いたように、東次郎もオートバイを運転するという身体的行為を通して物事を考え、感じている、と述べられています。

各選択肢の検討

 上記の分析を踏まえ、各選択肢を検討します。

E = 認識の旅:

 東次郎は、身体を使い、現実世界と触れ合う「実践」を通して、物事の新たな側面を見つけ、自己や世界についての理解を深めていきます。これはまさに、体験を通じて何かを「認識」していく旅です。直後に「道路をゆけばゆくだけ、多くのものごとが見えてくるし、頭ははっきりしてくる」 とあることからも、この旅が新しい認識をもたらすものであることがわかります。

F = 観念の旅:

 「観念の旅」とは、頭の中だけで行う、具体的な体験を伴わない旅を指します。本文が強調する「肉体の旅、実在との出会いの旅」 と正反対の概念であり、「Fではない」という否定の文脈にぴったりです。

a. E = 文の旅, F = 内面の旅:

 東次郎の旅は最終的に「文(紀行文)」の生産につながりますが、旅そのものは「文の旅」ではありません。また、彼の旅は強烈な「内面の旅」でもあるため、「F」が「内面の旅」では文脈に合いません。よって不適切です。

b. E = 教養の旅, F = 実践の旅:

 本文は東次郎の旅を「実践」そのものとして描いています。「F」が「実践の旅」では逆になってしまいます。よって不適切です。

c. E = 空想の旅, F = 現実の旅:

 直後の文で「実在との出会いの旅」と明言されているため、「E」が「空想の旅」であるはずがありません。「F」の「現実の旅」も同様に文脈と正反対です。よって不適切です。

d. E = 認識の旅, F = 観念の旅:

 これが最も適切です。

e. E = 消費の旅, F = 生産の旅:

 この「消費」と「生産」は、後の段落で東次郎自身が自分の旅の「意味」について悩む場面で出てくる対立軸です。しかし、この時点ではまだ旅の「性質」そのものを描写している段階であり、文脈に合いません。よって不適切です。

結論

 以上の検討から、空欄Eには「認識の旅」、空欄Fには「観念の旅」が入るのが、文脈上最も自然で論理的です。東次郎の旅は、頭の中だけの「観念の旅」ではなく、身体を通して現実と向き合い、新たな理解を得る「認識の旅」であると筆者は述べているのです。

問1-2【解答】

d

問1-3【解説】

 この問題は、空欄Gに当てはまる最も適切な言葉を選択肢から選ぶ問題です。空欄を含む文と、その内容の根拠となっている直前の段落(東次郎の琵琶湖畔での体験)を照らし合わせることで答えを導き出します。

問題箇所の確認

 空欄Gは、文章の最後の段落の冒頭にあります。この文は、直前に引用されている東次郎の体験(夜の琵琶湖畔での出来事)を要約し、その体験の本質を言い換えている部分です。したがって、この琵琶湖畔での体験がどのようなものであったかを正確に理解する必要があります。
「G により私にもたらされる、この世界のすべての存在には高貴なものがある、という感覚。」

文脈(東次郎の体験)の分析

 直前の引用文で、東次郎の体験の核心が述べられています。これらの記述から、東次郎の体験は、自分と自然との境界線がなくなり、一体化する(溶け込む)感覚であったことがわかります。

  • 「ぼくは 自然”を、強く強く感じた。」
  • 「自然に溶け込まなくてはいられなくなってくる。ぼくもそうだったに違いない。」
  • 「自分”などというちっぽけなものはなくなってしまうのだ。」
  • この結果として、「あらゆるものの尊さを、しみじみと感じられた」 と結論づけています。

各選択肢の検討

 東次郎の体験が「自分と自然の一体化」であったことを踏まえ、各選択肢を検討します。

a. 自然との別離:

 「別離」は「溶け込む」とは正反対の意味です。よって不適切です。

b. 自然との間接的対話:

 東次郎の体験は「強く強く感じた」とあるように、非常に直接的で全身的なものです。「間接的」ではその強烈さが表現できません。よって不適切です。

c. 自然との直接的合一:

 これが最も適切です。「直接的」は体験の強さを、「合一」は「自然に溶け込む」「自分がなくなる」という一体化した状態を的確に表現しています。この一体化によって、彼は「あらゆるものの尊さ」を感じることができたのです。

d. 自然との運命的出会い:

 「出会い」は、まだ自分と自然が別々の存在として対峙しているニュアンスを含みます。本文で述べられているのは、その境界が消える「溶け込む」という段階なので、「合一」の方がより的確です。

e. 自然との神秘的体験:

 この体験が「神秘的」であることは間違いありませんが、「神秘的体験」という言葉は非常に広範です。選択肢cの「直接的合一」は、その神秘的な体験が具体的にどのようなものであったか(=自然との一体化)をよりシャープに説明しています。最も的確な表現を選ぶという点では、cが優れています。

結論

 以上の検討から、東次郎が琵琶湖畔で経験した、自己と自然の境界が消え一体となる感覚を最も正確に言い表している言葉はcの「自然との直接的合一」です。

問1-3【解答】

c

問1-4【解説】

 この問題は、文章全体を踏まえ、筆者が「旅」と「自分」の関係をどのように捉えているかを150〜200字で要約する記述問題です。解答を作成するには、本文中から関連する記述を抽出し、それらを論理的に再構成する必要があります。

関連箇所の抽出

 本文中から「旅」と「自分」の関係について述べられている重要な部分を抜き出します。

冒頭:

 通い慣れた道を外れるという経験が「ひとりになるということ、自分になるということだった」と述べ、旅の始まりが自己の始まりと結びつけられています。

第二段落:

 「自分」は固定されたものではなく、「動いては関係を踏みはずし、はずしては関係を組み換え、自分を作り替えてゆく」存在であるとされています。そして「新しい風景との出合いが、新しい自分という面を削る」とあり、旅(新しい風景との出合い)が自己変革のきっかけとなることが示されます。

アンドレ・ジッドの引用:

 「私はけっしているのではない、私はなりゆく」という言葉を引用し、「自分」が静的な存在(being)ではなく、動的な過程(becoming)であることを強調しています。

浮谷東次郎の例:

 彼の旅の中心的な主題は「『自分』の発見」であると述べられています。旅のクライマックスで、彼は自然との一体化を通じて「『自分』などというちっぽけなものはなくなってしまう」という経験をします。これは、古い自己を一旦解体し、より大きな視点から自己や世界を再認識する過程です。

関係性の整理と要約の骨子作成

 抽出した内容を基に、「旅」と「自分」の関係性を整理します。

前提:

 筆者にとって「自分」とは、固定的・静的なものではなく、常に変化し続ける動的なプロセス(なりゆく存在)である。

旅の役割:

 「旅」は、この自己変革のプロセスを駆動させるための根源的な「行為」である。

メカニズム:

 旅によって未知の場所へ移動し、新しい風景や現実に出会うことで、人は既存の環境や人間関係から一時的に離れる。

結果:

 この「離脱」と「出会い」を通して、人はそれまでの自分(古い自分)を相対化し、解体する。その上で、新たな自分を発見し、作り替えていくことができる。

結論:

 したがって、筆者にとって「旅」とは、単なる移動ではなく、自己を発見し、形成していくための不可欠なプロセスそのものである。

指定字数での文章化

 上記の骨子を150〜200字の範囲でまとめます。キーワード(「なりゆく」「作り替える」「発見」など)を本文から取り入れつつ、論理的な文章を作成します。

問1-4【解答】 (194字)

筆者は、「自分」とは固定されたものではなく、常に変化し「なりゆく」存在であると考え、「旅」を、その変化を促す根源的な行為と位置づけていた。このように、慣れた場所を離れ、未知の風景や現実に出会う旅は、人を既存の関係から解放する。その過程で人は古い自己を解体し、それまで知らなかった新たな自己を発見し、作り替えていく。つまり、筆者にとって旅とは自己を発見・形成していくプロセスそのものである。

問2-1【解説】

 この問題は、傍線部①「古代ギリシアにおける数学がいかに行為であったかということがよくわかる」について、「どのようなところから」「何がわかる」のかを、本文の内容に基づいて100字以内で説明するよう求める問題です。

傍線部周辺の読解

 傍線部は、数学史家リヴィエル・ネッツの著作を読むことで、古代ギリシア数学が「行為」であったことがわかると述べています。したがって、その直後に続く部分に解答の根拠が書かれていると判断できます。

根拠の抽出

 本文から、「行為」であったことを示す具体的な根拠を2点探し出します。

根拠1:図の役割

 古代ギリシア数学では、命題の文章が図の存在に依存しており、図そのものが命題の一部となっている。
 哲学者のプラトンとは異なり、当時の数学者たちにとっては、抽象的な理念の不完全な像として図を描くのではなく、描かれた図そのものが研究の対象だった。
 さらに、「図を描くという行為そのものが証明プロセスの一部だった」と明記されています。

根拠2:数学者の言葉遣い

 プラトンが嘆いたように、当時の数学者たちは「まるで自分たちが実際に行為しているかのように」「『四角形にする』だとか『加える』だとか」といった、行為を表す言葉遣いをしていた。
 筆者はこの言葉遣いこそが、彼らにとって数学が「行為」であったことを如実に物語っている、と指摘しています。

解答の骨子作成

 抽出した2つの根拠を組み合わせ、指定された形式(〜というところから、〜ということがわかる)に沿ってまとめます。

どのようなところから?

  • 図を描く行為が証明の一部であり、図自体が研究対象であった点。
  • 数学者たちが「四角形にする」のような、実際に行動しているかのような言葉を使っていた点。

何がわかる?

 古代ギリシアの数学が、単なる思索ではなく、具体的な「行為」であったこと。

100字以内での文章化

 骨子を基に、字数制限に合わせて簡潔な文章を作成します。

問2-1【解答】 (96字)

命題が、それ自体が研究対象であった図と不可分であり、図を描く行為が証明の一部であった点。また、数学者たちが「四角形にする」といった、実際に行為しているかのような言葉遣いをしていた点からわかる。

問2-2【解説】

 この問題は、傍線部②「古代の数学者はそうした強力なテクノロジーの力を借りずに、数学的思考を展開する必要があった」に関連して、古代の数学者が「何の代わりに」「何を用いて」思考を展開したのかを100字以内で説明するよう求める問題です。

「強力なテクノロジー」の特定

 まず、古代の数学者が持っていなかった「強力なテクノロジー」とは何かを本文から特定します。

  • 傍線部を含む一文に「記号を駆使した代数の言語が整備されることで、数学の表現力が飛躍的に高まるのはようやく一七世紀に入ってからのこと」とあります。
  • さらに、その後の段落で「そもそも古代ギリシアには、記号もなければ数式もない」と明記されています。
  • これらから、「強力なテクノロジー」とは「記号」や「数式」を指していることがわかります。

「代わりのもの」の特定

 次に、記号や数式の代わりに何を使っていたかを本文から探し出します。

  • 傍線部の直前の段落に「その思考を支えるテクノロジーは、わずかに『図』と『自然言語』だけであ る」と明確に述べられています。
  • 傍線部の後の段落では、「自然言語」の具体的な使用法が説明されています。数式「A: B = C: D」の代わりに、「AがBに対するようにCがDに対する」という言葉の連なり、すなわち「定型表現」を用いていたとあります。
  • そして、この「定型表現」が、現代の「公式」の役割を果たしたと結論づけられています。

解答の骨子作成

 特定した情報を基に、解答の骨子を組み立てます。

(何の代わりに?)

 記号や数式の代わりに、

(何を用いて?)

 思考の道具として「図」と、自然言語を駆使した「定型表現」を用いた。この「定型表現」は現代の公式のような役割を果たしていた。

100字以内での文章化

 骨子を基に、指定字数内で簡潔にまとめます。
 (下書き)
 記号や数式の代わりに、思考の道具として図を用いた。また、「AがBに対するように」といった自然言語の「定型表現」を、現代の公式のように用いて数学的思考を展開した。
 (これで約98字)
 この文章で、問題の要求(何の代わりに、何を用いたか)に過不足なく答えていることを確認します。

問2-2【解答】 (93字)

古代の数学者は記号や数式の代わりに、思考の道具として図を用いた。また、「AがBに対するように」といった自然言語の「定型表現」を、現代の公式のような役割で用いることで数学的思考を展開した。

問2-3【解説】

 この問題は、傍線部③「独特の形式」について、1. それがどのような形式かを明らかにし、2. なぜその形式になったと考えられるかを説明する、二つの要素を200字以内で記述するよう求める問題です。

「独特の形式」とは何かを特定する

 本文で『原論』の形式について説明している箇所を探します。

  • 『原論』は「冒頭の二十三個の定義に始まって、命題と証明の列挙の前に、いくつかの『要請』と『公理』が提示される」とあります。
  • これが「独特の形式」の具体的な内容です。つまり、証明を始める前に、議論の前提となる定義・要請・公理を冒頭に掲げる形式のことを指します。

「その形式になった理由」を特定する

 次に、なぜそのような形式をとる必要があったのか、その理由を本文から探し出します。

  • ハンガリーの数学史家サボーの説が紹介されています。彼によれば、この形式は他者からの批判を意識し、無用な論争を避けるために導入されたものだと考えられています。
  • 具体例として、あらゆる運動を否定する「エレア派」の哲学が挙げられています。
  • 直線を引く、円を描くといった「要請」は、ある種の「運動」を前提としますが、エレア派の哲学が力を持っていた当時、それは自明のことではありませんでした。
  • そこで、そうした哲学的に論争の的となりうる事柄を、議論の出発点としてあらかじめ「要請」として提示することで、数学の実践そのものと、数学の基礎を巡る哲学的な論争とを切り離す(峻別する)必要があった、と筆者は説明しています。

解答の骨子作成と文章化

 上記2点を組み合わせて、200字以内の解答を作成します。

(形式の説明):

 「独特の形式」とは、証明を始める前に、議論の前提となる定義、要請、公理を冒頭に掲げる形式のこと。

(理由の説明):

 その理由は、数学を哲学的な論争から切り離すためであった。例えば、運動を否定するエレア派の哲学が影響力を持っていた当時、線の作図のような運動を伴う公準は自明ではなかった。そこで、それらをあらかじめ「要請」として提示することで、無用な論争を避け、数学の議論に集中する必要があったから。
 この骨子を自然な文章にまとめ、字数調整を行います。

問2-3【解答】 (198字)

「独特の形式」とは、命題の証明に先立ち、議論の前提となる定義、要請、公理を冒頭に掲げる形式を指す。その形式になった理由は、数学の実践を哲学的な論争から切り離すためであった。あらゆる運動を否定するエレア派の哲学が影響を持っていた当時、線の作図といった運動を伴う事柄は論争の的となり得た。そこで、それらを議論の前提として予め「要請」することで、無用な論争を避け、数学の探求に集中する必要があったから。

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